自己完結するということ

六本木ヒルズとかミッドタウンとか、街ごとに競うように点灯しているイルミネーション。何かこれって変じゃない?と思ったんだよなぁ。

先日のブログで「自己完結」というのを書いた。いまボランティアなどで被災地に行くなら、自分の食事や飲料水、クルマのガソリンなどは自分で準備していく。決して被災地のモノをもらってはいけないし、これが出来なければ行ってはいけない、という意味で書いた。

いよいよ実施された首都圏の計画停電。やっぱり東京は自己完結できない街なんだ、と改めて思う。食料も電気も自前で調達できずに地方から持ってこないとならない。なのに、発電所のある地方よりもずっと明るく照らしている。しかもその明かりは必ずしも必要なものなの? やっぱり何か変だ。

やっぱり無理があったんだよ。数百キロも離れた田舎に巨大発電所を作って送電線で運ぶということ自体。僕は原発反対論者でもなんでもないし、日本の技術を信じているけど、さすがに今回の福島原発の一件では嫌になってしまった。

いや、これは東京に限った話ではないか。まだ実施には至っていないが、新潟でも計画停電が予定されている。新潟も自己完結できていなかったということ。東京ほど無駄な明かりはないと思うけど、それでもここ数日、コンビニなどで照明を落としているのを見ると、これで十分じゃない?と思う。暮らしを見直すキッカケになればいい。

我が家だってそうなんだ。考え方を大きく改めれば、一軒一軒に発電機があって自己完結する暮らしだってありかもしれない。無駄に思えるかもしれないけど、遠く離れたところから送電線で電気を運ぶのとどちらがロスが少なく効率がいいか。

何だか今回の地震原発事故は、それくらい暮らし方が変わる可能性を含んでいるような気がしている。結局のところ、屋根に太陽光発電を設置した同僚が時代の先を行っていたのかな、と思ったり。エコという以上に、自己完結できる暮らし方に近くて。